2008.10.20 (Mon)
群青の姫君 3
わたくし達の間にそんな秘め事があったことなどおくびにも出さず、晩餐に招かれた席でお兄さまは談笑していた。
晩餐の席にはウルグラ国国王であるお父様と王妃であるお母様、そして弟のラファエルとわたくし、そして、お兄さまとお兄さまの元部下で、彼が辞めてしまった後の特殊作戦軍の現在の総司令官職を引き継いでいる人物も同席していた。
彼はツィタ・セレステ――と名乗ってはいるが、一般的に女性に使われる名前でもあることから、本名かどうかは怪しいものだ、と言うのが家柄正しい宮廷人達の言い草だった。
お喋りスズメ(侍女)達の噂話によると、彼は身分卑しいロマの出で、彼の母は占いや音楽や踊りで生計を立てる、旅芸人の一座の女だった。
父無し子を身籠っていた彼の母は、産まれた子供を一座の興行先であった、子宝に恵まれない豪商の奥方の手に預けて、また放浪の旅に出たらしいとか。
まるで物語のような彼の生い立ちは侍女達のお気に入りで、蔑みの対象であるロマという出自も、エキゾチックな魅力を付加させて下々には人気があった。
豪商の元で育ったとはいえ、彼自身の努力と才能が無ければ、我が国の精鋭部隊を率いる総司令官にまで上り詰めるのは無理な話だと思うけれど。
彼が怜悧な頭脳を備えた凡庸ならざる人物であることは、少し観察してみればわたくしにもわかる。
貴人達の前では常に薄笑いを浮かべながら、その実、油断なく周囲を窺っているらしい様子が、わたくしをそわそわと落ち着かない気分にさせるのだ。
腰まである銀髪に浅黒い肌、瞳の色はヘイゼルで、なるほど、侍女達が彼のことをエキゾチックと騒ぐ理由がよくわかる。
お兄さまよりも少しだけ背が高く逞しい骨格をしている。
美し過ぎる硬質な美貌は、周囲に近寄りがたい雰囲気を与えている。
確かお兄さまよりも三つ四つ年上という話を聞いた気がするが、お兄さまからの強い推挙があったとはいえ、この若さで総司令官職に就くことは異例の出世だ。
彼よりも年下のお兄さまが前任を務めていたことは、それほど以外な話ではない。
臣下に下ったとは言ってもお兄さまが王族の一員である事実は変わらないのだから、お兄さまはそれに見合うだけの特権を与えられて然るべき人間であった。
車座に並べられたカウチに各々が寝そべり、敷物の上に置かれた料理を食しながら談笑するのが、ウルグラの正式な晩餐スタイル。
西洋式のディナーが普段の夕食のスタイルになっているけれど、わたくしはウルグラのスタイルの方が寛げるので好きですわ。
葡萄の房を取って一粒口にする――と、先ほどからお兄さまと軍内部の難しいお話をしていた、くだんのツィタ・セレステと目が合ってしまった。
彼は張り付けた笑みを強くした。
いつもお兄さまの影のように付き従っているこの男。
わたくしはこの男が苦手だった。
軍の規律を破った兵士への厳し過ぎる厳罰の処し方や、冷戦体制にある隣国のスパイへの拷問行為が残虐過ぎるなど、彼に関しての良くない醜聞が侍女達の噂とは別ルートでわたくしの耳には届いていた。
面と向かって言葉を交わしたことはないけれど、わたくしがお兄さまとの会話を楽しんでいる最中も、油断なく周囲を窺い、時折わたくしを小馬鹿にした目で見てくる、その冷ややかな視線がたまらなく冷淡に感じられて、いままで彼のことは敬遠していた。
なぜお兄さまがこの油断ならない男を重用しているのかが、わたくしにはわからない。
以前、二人きりの夜に尋ねてみたことがあるけれど、いつも明朗なお兄さまにしてははかが行かず、わたくしの納得の行く答えは得られなかった。
『ツィタはおれにとって一番信頼のおける部下であり、大切な友でもある。お前が心配するようなことではないし…あれはあれで可愛い奴なんだがな』
それきりお兄さまはその話には口を閉ざしてしまい、わたくしの進言には耳を貸そうとしなかった。
「どうだ、ナイジェル。そろそろ退屈の虫が騒ぎ出した頃じゃないか?働き盛りの若い男がいつまでもブラブラしてるものではない。他に何かやりたいことがあるなら、お前に合う官職を何でも用意してやるぞ」
お父様はこれを言いたくて、お兄さまを晩餐に招待したのだ。
なぜかおまけまでついてきたのは予想外だったけれど。
お兄さまは居住まいを正してお父様に臣下の礼をとった。
「陛下のお優しいお気持ち、また過分なるご配慮を賜り、このナイジェル、深く感銘を受けました」
「何を水臭いことを。お前はわが兄の忘れ形見だ。お前の実母もお前を産んだ後すぐに産褥で身罷ってしまった。立て続けに両親を失った幸薄いお前を私はどう扱ってよいものか途方に暮れてしまった。またあの時は私も敬愛する兄上の死にショックを受けていたこともあり、産まれたばかりの赤子だったお前を家臣達に任せきりにしてしまい、肉親の情愛を知らずに育ててしまったという引け目がある。今更遅すぎるが、どうか私をお前の父と思ってもっと慕ってくれてもよいのだぞ」
「陛下のお優しさ、幾重にも身に沁みましてございます」
お父様がそんなふうにお兄さまのことを思っていたなんてわたくしは知らなかった。
面を上げたお兄さまの表情は晴れやかだった。
胸襟を開いて見せたお父様の思いやりに感銘を受けたようで、お兄さまも苦笑しながらでも打ち明ける気になったのだと思う。
「本音を申しますと、軍の厳しい規律や堅苦しさが性に合わなかった不甲斐無い男でして…陛下のご期待に添えず申し訳ない限りにございます」
「そうかな。軍内部でのお前の評判はたいそう良いものだった。的確な判断力や統率力を備えた黒の王子の異名は私の耳にも届いていたぞ。だからこそ、お前のような優秀な人間が、我が国の誇る精鋭部隊の総司令官という、重要なポストから退いてしまったのは惜しまれてならないのだ」
「それは買いかぶりというものですよ。王族出身で世間知らずな若造をみなが持ち上げてくれたに過ぎません」
そしてお兄さまは横のカウチのツィタを示して続けた。
「この者は私にとって信頼のおける一番の友でございます。また私に代わって特殊作戦軍総司令官職を引き継ぎました。そのご紹介をと思いまして、本日晩餐の席へ同行させましたことをお許し下さい」
「先ほどから気にはなっていたのだが…ほう、そなたが新しい総司令官か。名はなんと申す?」
「陛下から直答を許された。構わぬから答えよ」
お兄さまから紹介されたツィタは、居ずまいを正し一歩前へ出ると深くこうべを垂れて臣下の礼をとった。
「国王陛下に拝謁を賜り恐悦至極でございます。このような晩餐の席に侍ることは、わたくしのような身分卑しき者には身に余ることとは存じますが、いましばらくご容赦下さいませ。ナイジェル殿下よりご紹介頂きました通り、この度、特殊作戦軍総司令官職を引き継ぐこととなりましたツィタ・セレステと申す者でございます。若輩ながら誠心誠意努めさせて頂きます」
「うむ。よしなに頼むぞ」
「はっ、ご厚情を賜り感謝にたえません」
「下がっていいぞ」
お兄さまの命令でツィタは再度礼をとり、恭しく晩餐の席から退席した。
「あの男、どのような素姓のものだ?」
「本人が身分卑しき者と申しておりますくらいですから…察してあげて下さい」
苦笑しながらお兄さまは先ほどよりもずいぶん砕けた調子でお父様に応えた。
「お前はあの者を高く買っているのだな」
「ええ、ウルグラの精鋭部隊を率いる総司令官はツィタ・セレステ以外には考えられません。陛下も奴の実力を無視して身分がどうのと仰いますか?」
「いや、お前がそこまで買っている男なら心配はあるまい。それよりお前自身はどうするつもりだ?軍の仕事がいやなのはわかったから、これ以上引きとめることはしないが、身の振り方を考えておいた方が良いぞ」
「陛下の仰る通り、このままブラブラしているのも気が引けますから。――そうですね、我儘をお許し願えるなら、私は海外に留学しとうございます」
え……?
わたくしは思わずお兄さまを凝視してしまった。
「おお!海外留学か!それはよい。まだ若いお前なら何か得るものがあろうし、延いては我が国にもお前の得た知識が役に立つ日がくるだろう。戻った暁には重要なポストを用意してやれようし、それはまことに良い考えだ」
わたくしの胸中は穏やかではいられなかった。
――なんですって……!
お兄さまが留学?
まるで思いつきのような今の会話で、お兄さまは遠くに行ってしまうと言うのだろうか。
わたくしを残して――。
わたくしの切ない思いをよそに、お兄さまは一度も視線を合わせては下さらなかった。
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晩餐の席にはウルグラ国国王であるお父様と王妃であるお母様、そして弟のラファエルとわたくし、そして、お兄さまとお兄さまの元部下で、彼が辞めてしまった後の特殊作戦軍の現在の総司令官職を引き継いでいる人物も同席していた。
彼はツィタ・セレステ――と名乗ってはいるが、一般的に女性に使われる名前でもあることから、本名かどうかは怪しいものだ、と言うのが家柄正しい宮廷人達の言い草だった。
お喋りスズメ(侍女)達の噂話によると、彼は身分卑しいロマの出で、彼の母は占いや音楽や踊りで生計を立てる、旅芸人の一座の女だった。
父無し子を身籠っていた彼の母は、産まれた子供を一座の興行先であった、子宝に恵まれない豪商の奥方の手に預けて、また放浪の旅に出たらしいとか。
まるで物語のような彼の生い立ちは侍女達のお気に入りで、蔑みの対象であるロマという出自も、エキゾチックな魅力を付加させて下々には人気があった。
豪商の元で育ったとはいえ、彼自身の努力と才能が無ければ、我が国の精鋭部隊を率いる総司令官にまで上り詰めるのは無理な話だと思うけれど。
彼が怜悧な頭脳を備えた凡庸ならざる人物であることは、少し観察してみればわたくしにもわかる。
貴人達の前では常に薄笑いを浮かべながら、その実、油断なく周囲を窺っているらしい様子が、わたくしをそわそわと落ち着かない気分にさせるのだ。
腰まである銀髪に浅黒い肌、瞳の色はヘイゼルで、なるほど、侍女達が彼のことをエキゾチックと騒ぐ理由がよくわかる。
お兄さまよりも少しだけ背が高く逞しい骨格をしている。
美し過ぎる硬質な美貌は、周囲に近寄りがたい雰囲気を与えている。
確かお兄さまよりも三つ四つ年上という話を聞いた気がするが、お兄さまからの強い推挙があったとはいえ、この若さで総司令官職に就くことは異例の出世だ。
彼よりも年下のお兄さまが前任を務めていたことは、それほど以外な話ではない。
臣下に下ったとは言ってもお兄さまが王族の一員である事実は変わらないのだから、お兄さまはそれに見合うだけの特権を与えられて然るべき人間であった。
車座に並べられたカウチに各々が寝そべり、敷物の上に置かれた料理を食しながら談笑するのが、ウルグラの正式な晩餐スタイル。
西洋式のディナーが普段の夕食のスタイルになっているけれど、わたくしはウルグラのスタイルの方が寛げるので好きですわ。
葡萄の房を取って一粒口にする――と、先ほどからお兄さまと軍内部の難しいお話をしていた、くだんのツィタ・セレステと目が合ってしまった。
彼は張り付けた笑みを強くした。
いつもお兄さまの影のように付き従っているこの男。
わたくしはこの男が苦手だった。
軍の規律を破った兵士への厳し過ぎる厳罰の処し方や、冷戦体制にある隣国のスパイへの拷問行為が残虐過ぎるなど、彼に関しての良くない醜聞が侍女達の噂とは別ルートでわたくしの耳には届いていた。
面と向かって言葉を交わしたことはないけれど、わたくしがお兄さまとの会話を楽しんでいる最中も、油断なく周囲を窺い、時折わたくしを小馬鹿にした目で見てくる、その冷ややかな視線がたまらなく冷淡に感じられて、いままで彼のことは敬遠していた。
なぜお兄さまがこの油断ならない男を重用しているのかが、わたくしにはわからない。
以前、二人きりの夜に尋ねてみたことがあるけれど、いつも明朗なお兄さまにしてははかが行かず、わたくしの納得の行く答えは得られなかった。
『ツィタはおれにとって一番信頼のおける部下であり、大切な友でもある。お前が心配するようなことではないし…あれはあれで可愛い奴なんだがな』
それきりお兄さまはその話には口を閉ざしてしまい、わたくしの進言には耳を貸そうとしなかった。
「どうだ、ナイジェル。そろそろ退屈の虫が騒ぎ出した頃じゃないか?働き盛りの若い男がいつまでもブラブラしてるものではない。他に何かやりたいことがあるなら、お前に合う官職を何でも用意してやるぞ」
お父様はこれを言いたくて、お兄さまを晩餐に招待したのだ。
なぜかおまけまでついてきたのは予想外だったけれど。
お兄さまは居住まいを正してお父様に臣下の礼をとった。
「陛下のお優しいお気持ち、また過分なるご配慮を賜り、このナイジェル、深く感銘を受けました」
「何を水臭いことを。お前はわが兄の忘れ形見だ。お前の実母もお前を産んだ後すぐに産褥で身罷ってしまった。立て続けに両親を失った幸薄いお前を私はどう扱ってよいものか途方に暮れてしまった。またあの時は私も敬愛する兄上の死にショックを受けていたこともあり、産まれたばかりの赤子だったお前を家臣達に任せきりにしてしまい、肉親の情愛を知らずに育ててしまったという引け目がある。今更遅すぎるが、どうか私をお前の父と思ってもっと慕ってくれてもよいのだぞ」
「陛下のお優しさ、幾重にも身に沁みましてございます」
お父様がそんなふうにお兄さまのことを思っていたなんてわたくしは知らなかった。
面を上げたお兄さまの表情は晴れやかだった。
胸襟を開いて見せたお父様の思いやりに感銘を受けたようで、お兄さまも苦笑しながらでも打ち明ける気になったのだと思う。
「本音を申しますと、軍の厳しい規律や堅苦しさが性に合わなかった不甲斐無い男でして…陛下のご期待に添えず申し訳ない限りにございます」
「そうかな。軍内部でのお前の評判はたいそう良いものだった。的確な判断力や統率力を備えた黒の王子の異名は私の耳にも届いていたぞ。だからこそ、お前のような優秀な人間が、我が国の誇る精鋭部隊の総司令官という、重要なポストから退いてしまったのは惜しまれてならないのだ」
「それは買いかぶりというものですよ。王族出身で世間知らずな若造をみなが持ち上げてくれたに過ぎません」
そしてお兄さまは横のカウチのツィタを示して続けた。
「この者は私にとって信頼のおける一番の友でございます。また私に代わって特殊作戦軍総司令官職を引き継ぎました。そのご紹介をと思いまして、本日晩餐の席へ同行させましたことをお許し下さい」
「先ほどから気にはなっていたのだが…ほう、そなたが新しい総司令官か。名はなんと申す?」
「陛下から直答を許された。構わぬから答えよ」
お兄さまから紹介されたツィタは、居ずまいを正し一歩前へ出ると深くこうべを垂れて臣下の礼をとった。
「国王陛下に拝謁を賜り恐悦至極でございます。このような晩餐の席に侍ることは、わたくしのような身分卑しき者には身に余ることとは存じますが、いましばらくご容赦下さいませ。ナイジェル殿下よりご紹介頂きました通り、この度、特殊作戦軍総司令官職を引き継ぐこととなりましたツィタ・セレステと申す者でございます。若輩ながら誠心誠意努めさせて頂きます」
「うむ。よしなに頼むぞ」
「はっ、ご厚情を賜り感謝にたえません」
「下がっていいぞ」
お兄さまの命令でツィタは再度礼をとり、恭しく晩餐の席から退席した。
「あの男、どのような素姓のものだ?」
「本人が身分卑しき者と申しておりますくらいですから…察してあげて下さい」
苦笑しながらお兄さまは先ほどよりもずいぶん砕けた調子でお父様に応えた。
「お前はあの者を高く買っているのだな」
「ええ、ウルグラの精鋭部隊を率いる総司令官はツィタ・セレステ以外には考えられません。陛下も奴の実力を無視して身分がどうのと仰いますか?」
「いや、お前がそこまで買っている男なら心配はあるまい。それよりお前自身はどうするつもりだ?軍の仕事がいやなのはわかったから、これ以上引きとめることはしないが、身の振り方を考えておいた方が良いぞ」
「陛下の仰る通り、このままブラブラしているのも気が引けますから。――そうですね、我儘をお許し願えるなら、私は海外に留学しとうございます」
え……?
わたくしは思わずお兄さまを凝視してしまった。
「おお!海外留学か!それはよい。まだ若いお前なら何か得るものがあろうし、延いては我が国にもお前の得た知識が役に立つ日がくるだろう。戻った暁には重要なポストを用意してやれようし、それはまことに良い考えだ」
わたくしの胸中は穏やかではいられなかった。
――なんですって……!
お兄さまが留学?
まるで思いつきのような今の会話で、お兄さまは遠くに行ってしまうと言うのだろうか。
わたくしを残して――。
わたくしの切ない思いをよそに、お兄さまは一度も視線を合わせては下さらなかった。
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2008.10.17 (Fri)
群青の姫君 2
弟のラファエルにまで隠さなくてはいけない訳、それは一つにはわたくしがまだ幼すぎるから。
一月前、13歳の誕生日を迎えたその日に、わたくしは彼のものになった。
ウルグラ王国の女性の結婚適齢期が十代後半と、他の諸国に比べて若いとはいえ限度がある。
なんと言っても彼はわたくしの倍の年齢なのだから、わたくし達が真実愛し合っていると説いても、分別のある大人の男がまだ幼い少女に淫行を仕掛けたと思われるのがオチですわね。
そしてもう一つ、わたくしはウルグラ王家の王女で、自由な恋愛など許されるはずもなかった。
さらにまずいことは、従兄である彼との血の近さだった。
いくつもの障害があってなお、彼を愛する気持ちは変えられなかったから、わたくし達は絶対に誰にも知られてはいけない秘密の恋をしていた。
そしてわたくしは、いけないことと知りつつ、今夜も侍女の目を盗んで王宮を脱け出し、彼の元へ忍んでゆくのだ。
お兄さまは王宮の敷地内に建てられている、いまは亡き彼の父に下賜された小宮殿で幼い頃から暮らしていた。
腹違いの兄妹達ですら、わたくしとラファエルを遠巻きに眺めている中、物心ついた頃には彼はいつも気さくに話しかけてくれた。
ラファエルにするよりは優しく、あの魅力的な笑みを浮かべて、少し乱暴なくらいに頭を撫でてくれたお兄さま。
わたくしが大きくなってくると、その特権はラファエルにとられてしまったけれど、心地良い乾いた大きな手の感触はいまでも忘れられない。
「お兄さま?」
「…アンジュか」
暗がりの中、わたくしの問いかけに応えたお兄さまは、いつものように庭園の茂みに潜んでいたわたくしを、ひとけの無い拱廊から招き寄せた。
「誰にも見つからなかった?」
「もちろん!そんなドジは踏みませんことよ」
お兄さまは苦笑すると、わたくしを抱え上げて有無を言わせず唇を奪った。
「ぅんっ!は…んっ…」
わたくしはそれだけで体中が火照り、全身の力が抜けて、立っていられなくなってしまう。
ぐったりとしたわたくしをお兄さまは難なく抱え上げると、彼の寝室に連れて行った。
「ああ…ん…はあっ」
わたくしはお兄さまのなすがままに悶えるばかりだ。
暗闇の中にうごめく二体の男女。
誰にも言えない恥ずかしい行為に耽溺する、わたくしの姿はさぞや浅ましく映ることだろう…
まだ幼いわたくしには彼との愛の行為が濃密過ぎて、時々ついていけなくなる時がある。
一月前に初めて彼に抱かれてから、何度もしているのにいまだに慣れることはない。
未熟すぎる両の胸を何度も吸われ朦朧としはじめた頃、お兄さまは恥ずかしくてしょうがない、わたくしの苦手なことを仕掛けてきた。
「いやっ…だめ!そんなところ…ああっ!」
「まだ慣れていないだけだ。じきに良くなって、お前の方からねだるようになるだろうさ」
お兄さまは顔を上げてそう言うと、意地の悪い笑みを浮かべながら同時に悪戯っぽい眼差しを向けてきた。
(なんという恥ずかしいことを…)
物慣れないわたくしをからかっているのだ!
わたくしは怒りと恥ずかしさにわなわなと震え出して、彼の褥から這出ようとした。
お兄さまはそんなわたくしの腕を掴んで引き止めると、さらに気に障る一言を言った。
「お姫様はご機嫌斜めかな?」
「お兄さまは意地悪ですわ!」
本気で腹を立てているわたくしの様子に、彼は呆れたように一つため息をつくとあっけなく謝った。
「ああ、おれが悪かった。いとけない少女をからかったおれの落ち度だ。お前がまだほんの子供だってことを忘れてたよ」
本気で悪かったなんて、思ってもいないくせに。
唇をかみしめて恨めしそうにお兄さまを見上げると、彼は極上の笑みを浮かべ、心地良い乾いた大きな手でわたくしの頭を乱暴に撫でた。
そしてわたくしの肩を抱擁すると、とっておきの秘密を打ち明けるように甘い声で囁くのだ。
「どうやらおれは、愛しいものをいじめたくなる、困った性分らしい」
この言い草に先ほどまでの怒りはどこかに吹き飛んでしまい、かわりにお兄さまらしい、ふてぶてしい態度にポッと体中が火照るのを感じた。
ああ、やはりこの恋を諦めて、また元の味気ない生活に戻るなんてとても無理な話ですわ。
女のわたくしから見てもお兄さまはとても美しくて、魅力的な容姿をしている。
癖のない艶やかな黒髪に黒曜石のような美しい瞳、体型は細身の筋肉質でかなりの長身。
身につける衣装もいつも黒衣の黒ずくめの中で、唯一彼の肌の色は平均的なウルグラ人よりもかなり白い。
長い間西洋の植民地になっていた我が国は、混血を繰り返した結果、多種多様な風貌をしている者が多いけれど、毛髪や瞳の色に変化が起こることが多いので、彼のように肌の色まで変化が起こるタイプは稀だった。
意地悪で偉そうで、どこか飄々としてとらえどころのないお兄さまに、わたくしはどうしようもなく魅かれている。
ことに二人きりで過ごす時の、セクシャルなことを匂わせる、色気たっぷりの流し目などは、わたくしには到底太刀打ちできないほどの、淫靡な雰囲気を醸し出している。
かと思えばラファエル相手にちゃんばらの相手をして遊んでやってる様は、とても子供っぽくって微笑ましい。
これほど魅力的な人物にそばにいられてどうして抗えようか…
お兄さまはわたくしの初恋の相手だった。
わたくしの心の変化を敏感に嗅ぎとったお兄さまは、先ほどの続きをするべく、わたくしを抱擁したまま覆い被さり、再び褥に横たえた。
「さて、機嫌も直ったところで、レッスン再開だな」
「まっ―――」
頬を染めながらも、わたくしは彼の与えてくれる快楽に酔いしれた。
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一月前、13歳の誕生日を迎えたその日に、わたくしは彼のものになった。
ウルグラ王国の女性の結婚適齢期が十代後半と、他の諸国に比べて若いとはいえ限度がある。
なんと言っても彼はわたくしの倍の年齢なのだから、わたくし達が真実愛し合っていると説いても、分別のある大人の男がまだ幼い少女に淫行を仕掛けたと思われるのがオチですわね。
そしてもう一つ、わたくしはウルグラ王家の王女で、自由な恋愛など許されるはずもなかった。
さらにまずいことは、従兄である彼との血の近さだった。
いくつもの障害があってなお、彼を愛する気持ちは変えられなかったから、わたくし達は絶対に誰にも知られてはいけない秘密の恋をしていた。
そしてわたくしは、いけないことと知りつつ、今夜も侍女の目を盗んで王宮を脱け出し、彼の元へ忍んでゆくのだ。
お兄さまは王宮の敷地内に建てられている、いまは亡き彼の父に下賜された小宮殿で幼い頃から暮らしていた。
腹違いの兄妹達ですら、わたくしとラファエルを遠巻きに眺めている中、物心ついた頃には彼はいつも気さくに話しかけてくれた。
ラファエルにするよりは優しく、あの魅力的な笑みを浮かべて、少し乱暴なくらいに頭を撫でてくれたお兄さま。
わたくしが大きくなってくると、その特権はラファエルにとられてしまったけれど、心地良い乾いた大きな手の感触はいまでも忘れられない。
「お兄さま?」
「…アンジュか」
暗がりの中、わたくしの問いかけに応えたお兄さまは、いつものように庭園の茂みに潜んでいたわたくしを、ひとけの無い拱廊から招き寄せた。
「誰にも見つからなかった?」
「もちろん!そんなドジは踏みませんことよ」
お兄さまは苦笑すると、わたくしを抱え上げて有無を言わせず唇を奪った。
「ぅんっ!は…んっ…」
わたくしはそれだけで体中が火照り、全身の力が抜けて、立っていられなくなってしまう。
ぐったりとしたわたくしをお兄さまは難なく抱え上げると、彼の寝室に連れて行った。
「ああ…ん…はあっ」
わたくしはお兄さまのなすがままに悶えるばかりだ。
暗闇の中にうごめく二体の男女。
誰にも言えない恥ずかしい行為に耽溺する、わたくしの姿はさぞや浅ましく映ることだろう…
まだ幼いわたくしには彼との愛の行為が濃密過ぎて、時々ついていけなくなる時がある。
一月前に初めて彼に抱かれてから、何度もしているのにいまだに慣れることはない。
未熟すぎる両の胸を何度も吸われ朦朧としはじめた頃、お兄さまは恥ずかしくてしょうがない、わたくしの苦手なことを仕掛けてきた。
「いやっ…だめ!そんなところ…ああっ!」
「まだ慣れていないだけだ。じきに良くなって、お前の方からねだるようになるだろうさ」
お兄さまは顔を上げてそう言うと、意地の悪い笑みを浮かべながら同時に悪戯っぽい眼差しを向けてきた。
(なんという恥ずかしいことを…)
物慣れないわたくしをからかっているのだ!
わたくしは怒りと恥ずかしさにわなわなと震え出して、彼の褥から這出ようとした。
お兄さまはそんなわたくしの腕を掴んで引き止めると、さらに気に障る一言を言った。
「お姫様はご機嫌斜めかな?」
「お兄さまは意地悪ですわ!」
本気で腹を立てているわたくしの様子に、彼は呆れたように一つため息をつくとあっけなく謝った。
「ああ、おれが悪かった。いとけない少女をからかったおれの落ち度だ。お前がまだほんの子供だってことを忘れてたよ」
本気で悪かったなんて、思ってもいないくせに。
唇をかみしめて恨めしそうにお兄さまを見上げると、彼は極上の笑みを浮かべ、心地良い乾いた大きな手でわたくしの頭を乱暴に撫でた。
そしてわたくしの肩を抱擁すると、とっておきの秘密を打ち明けるように甘い声で囁くのだ。
「どうやらおれは、愛しいものをいじめたくなる、困った性分らしい」
この言い草に先ほどまでの怒りはどこかに吹き飛んでしまい、かわりにお兄さまらしい、ふてぶてしい態度にポッと体中が火照るのを感じた。
ああ、やはりこの恋を諦めて、また元の味気ない生活に戻るなんてとても無理な話ですわ。
女のわたくしから見てもお兄さまはとても美しくて、魅力的な容姿をしている。
癖のない艶やかな黒髪に黒曜石のような美しい瞳、体型は細身の筋肉質でかなりの長身。
身につける衣装もいつも黒衣の黒ずくめの中で、唯一彼の肌の色は平均的なウルグラ人よりもかなり白い。
長い間西洋の植民地になっていた我が国は、混血を繰り返した結果、多種多様な風貌をしている者が多いけれど、毛髪や瞳の色に変化が起こることが多いので、彼のように肌の色まで変化が起こるタイプは稀だった。
意地悪で偉そうで、どこか飄々としてとらえどころのないお兄さまに、わたくしはどうしようもなく魅かれている。
ことに二人きりで過ごす時の、セクシャルなことを匂わせる、色気たっぷりの流し目などは、わたくしには到底太刀打ちできないほどの、淫靡な雰囲気を醸し出している。
かと思えばラファエル相手にちゃんばらの相手をして遊んでやってる様は、とても子供っぽくって微笑ましい。
これほど魅力的な人物にそばにいられてどうして抗えようか…
お兄さまはわたくしの初恋の相手だった。
わたくしの心の変化を敏感に嗅ぎとったお兄さまは、先ほどの続きをするべく、わたくしを抱擁したまま覆い被さり、再び褥に横たえた。
「さて、機嫌も直ったところで、レッスン再開だな」
「まっ―――」
頬を染めながらも、わたくしは彼の与えてくれる快楽に酔いしれた。
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2008.10.15 (Wed)
群青の姫君 1
西洋と東洋の境に位置する小国、名をウルグラ王国という。
長い間西洋のある国の植民地となり、自国の言葉を禁じられ、いまではウルグラの言葉を話せるものは数少ない。
西洋から押し付けられた宗教は多神教から一神教へと姿を変え、混血を繰り返した結果、純粋なウルグラの血は失われたという。
独立後王権は復活したが、西洋文化は根強く残り、西洋と東洋の二つの顔を持つ、神秘的な王国が誕生した。
それが国土の三分の一を砂漠の乾いた砂に覆われ、天然ガスや石油、また鉱石の産出量でも潤っている、近年目覚ましい経済的発展を遂げたウルグラ王国である。
ウルグラには数々の伝承、言い伝えが残っている。
それは言葉までも奪われてしまった、ウルグラの人々が自国の歴史を何とか残せないかと願う、苦肉の策であり最後の抵抗でもあった。
言い伝えが正しい歴史かは定かではない。
だだ、親が子供に伝え聞かせ、その子供が親になったらまた自分の子供に聞かせるのだ。
そうやって脈々とウルグラの物語は幾通りにも枝分かれして、別々の話を紡いでいった。
ウルグラ国民ならば誰でも知らぬ者はいない、最初に語られるべき物語がある。
ウルグラ創世の歴史だと自国民ならば胸を張って言い切る、リー・パシャ英雄伝説である。
その昔、まだこの地は平定されておらず、人々は快楽に興じ、破壊と殺戮の限りを尽くしていた。
この有様を嘆いた神々は、この地を暗く淀んだ瘴気に覆われた、作物の育たぬ焦土と化した。
人々は懺悔し、処女を生贄に差し出し神々への祈りを捧げたが、焦土と化したこの地が砂に覆われてもなお、神々の怒りは鎮まらなかった。
意気消沈した人々はまた元の快楽に耽溺するようになった。
いまだ暗黒の時代、突如としてこの地に現れた一人の戦士がいた。
名をリー・パシャという。
彼は人心を魅了し従わせる術を心得ていた。
氏族を作り、人々の乱れた暮らしぶりを諫め、蛮行を繰り返す盗賊や野党を退治した。
彼についての逸話がいくつかあるが、その中でも奇想天外な物語の一つに、獅子のたてがみと尾、牛の角、鷹の爪と巨大な翼を持つ妖魔王を、幾度かの死闘を繰り返した末に、天から授けられた聖剣で刺し貫き、見事勝利したというものがあった。
妖魔王を倒した後、瘴気に覆われたこの地に、リー・パシャが勝利の雄叫びを上げて聖剣を天高く突き上げた瞬間、突き上げた聖剣の上空から、皆が待ち焦がれていた太陽の光が降り注いだという。
リー・パシャは人々から英雄として崇められ、尊敬される一族の長としてその後もこの地を守り、子孫を残して安らかにこの世を去ったという。
ウルグラという王国の名の由来は、この地の初めから住み着いていた、ウルグル族の呼び名であると伝えられる。
最初にリー・パシャに付き従ったのがウルグル族で、彼の妻となるマルグリトはウルグル族の女戦士だったそうな。
「そうやって姉さまはいつも、ぼくのことを子供扱いするんだからっ!」
「ちょっとからかっただけで、子供みたいにほっぺを膨らませたりする、それのどこが子供じゃないんですって?」
わたくしが切り返すとラファエルはますます愛らしい頬を膨らませて、今度はそっぽを向き出した。
ついつい三つ年下の弟をからかってしまうのは、無邪気で天真爛漫な、この子のクルクル変わる表情が見たいから。
良く言えば冷静だけど、何事にも少し冷めた目で物事を見てしまうわたくしには、ラファエルみたいな無邪気で明るい性格が眩しく映るのですわ。
羨ましいとは思うけれど、わたくしはわたくし、それにこんな愛らしい小動物を愛玩する楽しみは、自分自身が対象になってしまっては味わえないもの。
午後の授業を終えて、王宮内のテラスで乾いた風を楽しみながら、一時のティータイム。
スリランカから取り寄せた上質なセイロン茶は、芳しいバラの香りがしてとても美味しい。
わたくしはこの王国の第一王女にして、現時点において第二王位継承権者でもある。
そして弟のラファエルは、ウルグラ王国第一王子にして、次代の王位に就くべき嫡出子であった。
父ムザブ国王は、天然資源で潤った資金を国民に惜しみなく還元し、良王として尊敬されていた。
母のイサベラはわたくしとラファエルにとっては優しい母であり、国民にとっては慈悲深く聡明な正妃であった。
わたくしには他に腹違いの兄妹達がいるけれど、彼等は庶子で、わたくし達姉弟とは隔てられて育ったため、公の席で顔を合わせるくらいの付き合いでしかなかった。
だから血の繋がった弟と胸を張って呼べるのは、可愛いわたくしの半身、ラファエルただ一人なのですわ。
「仲睦ましいご姉弟団らんのところ申し訳ございませんが、無骨な軍人上がりがお邪魔してもよろしいでしょうか?」
テラスの入口、アーチ形に伸びる円柱の一方に寄りかかり、面白そうにわたくし達を窺っていた人物。
我が国の男子の正装であるビシュト(外衣)の下のサウブ(内長衣)まで、あいかわらず黒ずくめの姿は彼以外にはいない。
「一人でお寂しいのでしたら、お兄さまをティータイムに招待して差し上げてもよくってよ」
わたくしの高飛車な物言いに、彼は片眉を上げると調子を合わせてくれた。
「これはこれは、麗しき姫君。光栄なるお言葉を賜り、このナイジェル、喜びに堪えません」
臣下の礼を取る真似までしてくれて、わたくしはちょっと恥ずかしくなってしまった。
彼の名はナイジェル・パシャ・グルカーン。
ついこの間までウルグラ王国の誇る、陸軍最高精鋭部隊、特殊作戦軍総司令官を務めておいて、任期が満了したという理由で更新しなかった変わり者。
いまは役職もなく、暇を持て余してブラブラしているばかりだ。
わたくしが彼のことをお兄さまと呼ぶのは、もちろん血の繋がった兄などでは無く、彼の亡くなった父がわたくしの父の兄なので、正確には従兄にあたる。
王族でありながら臣下に下ることになってしまったお兄さま。
どこか飄々として掴みどころのない性格からは、内心の彼の思いを窺い知ることはできないけれど。
…全く何を考えているのかしら。
高い地位に上り詰めておいて、これからという時にあっさり放棄してしまった彼に、わたくしは内心呆れ果てている。
「ナイジェルゥ〜!姉さまのお姫様ごっこに付き合うのはもういいからさ。早くこっちにおいでよ!」
「おや、ラファエル。お前また背が伸びたんじゃないか?」
「ホント!?うれしいなっ」
「あと一年もすれば、姉上を追い越してしまうぞ」
お兄さまはテラスの中へ歩み寄ると、ラファエルの頭をガシガシかき回しながら、弟の喜びそうなことを言ってあげた。
他愛ないわが弟はすっかりお兄さまに懐柔されており、彼のことが大好きなのだ。
「今日の授業はもう済んだのか」
「…えーと、ぼくはまだこれからスペイン語の授業が残ってるんだよね」
「そうか、もし暇だったら市中で祭りをやっているから、見物がてら連れ出してやろうと思ってたんだが」
「ええっ!?うそ〜!」
残念そうに顔を歪めて悔しがるラファエルに、お兄さまは今度の祭りの日には連れてってやると言ってなだめすかした。
それから彼は黒曜石のような瞳をわたくしに向けて尋ねた。
「お前はもう授業はないのか?」
強い眼差しでまっすぐに見つめられると、それだけでわたくしの胸は高鳴る。
答えられずにいたわたくしの代わりに、ラファエルが自慢してくれた。
「姉さまはすごいんだよ!どこの国の言葉でも、あっという間にスラスラ話せるようになるんだ!こないだ習い始めたばっかりのスペイン語だって、先生がビックリして驚いてたもん。…だからこのあとの授業はぼくだけなんだ」
「ほう、それはすごいな」
感心されて、ますますわたくしの胸は高鳴り、頬まで熱くなる。
どういうものか、わたくしは語学が得意で、聞いたことのない言葉でもすぐに覚えてしまう特技を持っている。
ラファエルに合わせて、ひとしきり感心した振りをみせた後、彼はもう一つの顔を露わにした。
瞳に面白がるような、いたずらな色が浮かんでいる。
「ではアンジュ、これから予定がないようなら、祭りに連れてってやろうか?」
「え―っ!姉さまだけずるいよっ!」
たちの悪い笑みを貼り付け、弟の目の前でわたくしを誘う男。
まったくどういうつもりなのだろう…
そう、彼はわたくしの、誰にも言えない秘密の恋人でもあるのだから。
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長い間西洋のある国の植民地となり、自国の言葉を禁じられ、いまではウルグラの言葉を話せるものは数少ない。
西洋から押し付けられた宗教は多神教から一神教へと姿を変え、混血を繰り返した結果、純粋なウルグラの血は失われたという。
独立後王権は復活したが、西洋文化は根強く残り、西洋と東洋の二つの顔を持つ、神秘的な王国が誕生した。
それが国土の三分の一を砂漠の乾いた砂に覆われ、天然ガスや石油、また鉱石の産出量でも潤っている、近年目覚ましい経済的発展を遂げたウルグラ王国である。
ウルグラには数々の伝承、言い伝えが残っている。
それは言葉までも奪われてしまった、ウルグラの人々が自国の歴史を何とか残せないかと願う、苦肉の策であり最後の抵抗でもあった。
言い伝えが正しい歴史かは定かではない。
だだ、親が子供に伝え聞かせ、その子供が親になったらまた自分の子供に聞かせるのだ。
そうやって脈々とウルグラの物語は幾通りにも枝分かれして、別々の話を紡いでいった。
ウルグラ国民ならば誰でも知らぬ者はいない、最初に語られるべき物語がある。
ウルグラ創世の歴史だと自国民ならば胸を張って言い切る、リー・パシャ英雄伝説である。
その昔、まだこの地は平定されておらず、人々は快楽に興じ、破壊と殺戮の限りを尽くしていた。
この有様を嘆いた神々は、この地を暗く淀んだ瘴気に覆われた、作物の育たぬ焦土と化した。
人々は懺悔し、処女を生贄に差し出し神々への祈りを捧げたが、焦土と化したこの地が砂に覆われてもなお、神々の怒りは鎮まらなかった。
意気消沈した人々はまた元の快楽に耽溺するようになった。
いまだ暗黒の時代、突如としてこの地に現れた一人の戦士がいた。
名をリー・パシャという。
彼は人心を魅了し従わせる術を心得ていた。
氏族を作り、人々の乱れた暮らしぶりを諫め、蛮行を繰り返す盗賊や野党を退治した。
彼についての逸話がいくつかあるが、その中でも奇想天外な物語の一つに、獅子のたてがみと尾、牛の角、鷹の爪と巨大な翼を持つ妖魔王を、幾度かの死闘を繰り返した末に、天から授けられた聖剣で刺し貫き、見事勝利したというものがあった。
妖魔王を倒した後、瘴気に覆われたこの地に、リー・パシャが勝利の雄叫びを上げて聖剣を天高く突き上げた瞬間、突き上げた聖剣の上空から、皆が待ち焦がれていた太陽の光が降り注いだという。
リー・パシャは人々から英雄として崇められ、尊敬される一族の長としてその後もこの地を守り、子孫を残して安らかにこの世を去ったという。
ウルグラという王国の名の由来は、この地の初めから住み着いていた、ウルグル族の呼び名であると伝えられる。
最初にリー・パシャに付き従ったのがウルグル族で、彼の妻となるマルグリトはウルグル族の女戦士だったそうな。
「そうやって姉さまはいつも、ぼくのことを子供扱いするんだからっ!」
「ちょっとからかっただけで、子供みたいにほっぺを膨らませたりする、それのどこが子供じゃないんですって?」
わたくしが切り返すとラファエルはますます愛らしい頬を膨らませて、今度はそっぽを向き出した。
ついつい三つ年下の弟をからかってしまうのは、無邪気で天真爛漫な、この子のクルクル変わる表情が見たいから。
良く言えば冷静だけど、何事にも少し冷めた目で物事を見てしまうわたくしには、ラファエルみたいな無邪気で明るい性格が眩しく映るのですわ。
羨ましいとは思うけれど、わたくしはわたくし、それにこんな愛らしい小動物を愛玩する楽しみは、自分自身が対象になってしまっては味わえないもの。
午後の授業を終えて、王宮内のテラスで乾いた風を楽しみながら、一時のティータイム。
スリランカから取り寄せた上質なセイロン茶は、芳しいバラの香りがしてとても美味しい。
わたくしはこの王国の第一王女にして、現時点において第二王位継承権者でもある。
そして弟のラファエルは、ウルグラ王国第一王子にして、次代の王位に就くべき嫡出子であった。
父ムザブ国王は、天然資源で潤った資金を国民に惜しみなく還元し、良王として尊敬されていた。
母のイサベラはわたくしとラファエルにとっては優しい母であり、国民にとっては慈悲深く聡明な正妃であった。
わたくしには他に腹違いの兄妹達がいるけれど、彼等は庶子で、わたくし達姉弟とは隔てられて育ったため、公の席で顔を合わせるくらいの付き合いでしかなかった。
だから血の繋がった弟と胸を張って呼べるのは、可愛いわたくしの半身、ラファエルただ一人なのですわ。
「仲睦ましいご姉弟団らんのところ申し訳ございませんが、無骨な軍人上がりがお邪魔してもよろしいでしょうか?」
テラスの入口、アーチ形に伸びる円柱の一方に寄りかかり、面白そうにわたくし達を窺っていた人物。
我が国の男子の正装であるビシュト(外衣)の下のサウブ(内長衣)まで、あいかわらず黒ずくめの姿は彼以外にはいない。
「一人でお寂しいのでしたら、お兄さまをティータイムに招待して差し上げてもよくってよ」
わたくしの高飛車な物言いに、彼は片眉を上げると調子を合わせてくれた。
「これはこれは、麗しき姫君。光栄なるお言葉を賜り、このナイジェル、喜びに堪えません」
臣下の礼を取る真似までしてくれて、わたくしはちょっと恥ずかしくなってしまった。
彼の名はナイジェル・パシャ・グルカーン。
ついこの間までウルグラ王国の誇る、陸軍最高精鋭部隊、特殊作戦軍総司令官を務めておいて、任期が満了したという理由で更新しなかった変わり者。
いまは役職もなく、暇を持て余してブラブラしているばかりだ。
わたくしが彼のことをお兄さまと呼ぶのは、もちろん血の繋がった兄などでは無く、彼の亡くなった父がわたくしの父の兄なので、正確には従兄にあたる。
王族でありながら臣下に下ることになってしまったお兄さま。
どこか飄々として掴みどころのない性格からは、内心の彼の思いを窺い知ることはできないけれど。
…全く何を考えているのかしら。
高い地位に上り詰めておいて、これからという時にあっさり放棄してしまった彼に、わたくしは内心呆れ果てている。
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「おや、ラファエル。お前また背が伸びたんじゃないか?」
「ホント!?うれしいなっ」
「あと一年もすれば、姉上を追い越してしまうぞ」
お兄さまはテラスの中へ歩み寄ると、ラファエルの頭をガシガシかき回しながら、弟の喜びそうなことを言ってあげた。
他愛ないわが弟はすっかりお兄さまに懐柔されており、彼のことが大好きなのだ。
「今日の授業はもう済んだのか」
「…えーと、ぼくはまだこれからスペイン語の授業が残ってるんだよね」
「そうか、もし暇だったら市中で祭りをやっているから、見物がてら連れ出してやろうと思ってたんだが」
「ええっ!?うそ〜!」
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それから彼は黒曜石のような瞳をわたくしに向けて尋ねた。
「お前はもう授業はないのか?」
強い眼差しでまっすぐに見つめられると、それだけでわたくしの胸は高鳴る。
答えられずにいたわたくしの代わりに、ラファエルが自慢してくれた。
「姉さまはすごいんだよ!どこの国の言葉でも、あっという間にスラスラ話せるようになるんだ!こないだ習い始めたばっかりのスペイン語だって、先生がビックリして驚いてたもん。…だからこのあとの授業はぼくだけなんだ」
「ほう、それはすごいな」
感心されて、ますますわたくしの胸は高鳴り、頬まで熱くなる。
どういうものか、わたくしは語学が得意で、聞いたことのない言葉でもすぐに覚えてしまう特技を持っている。
ラファエルに合わせて、ひとしきり感心した振りをみせた後、彼はもう一つの顔を露わにした。
瞳に面白がるような、いたずらな色が浮かんでいる。
「ではアンジュ、これから予定がないようなら、祭りに連れてってやろうか?」
「え―っ!姉さまだけずるいよっ!」
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そう、彼はわたくしの、誰にも言えない秘密の恋人でもあるのだから。
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2008.10.12 (Sun)
アンジュ
イケメンパラダイスのSPドラマを流しながら記事を描きました。
あまりのバカバカしさにチャンネル変えたくなりましたが…
水嶋ヒロくんがっ!ヒロくんが〜ww
ゴホンッ、
今回はオリジ絵を描きました。
さて、この子は誰でしょう。
ヒントは苺ワールドの住人です。
バレバレですね、答えは乙姫アンジュちゃん。
やっと彼女のことがわかってきたので思わず描いちゃいました。
過去の記事を見てくれた人はお分かりでしょうが、彼女は姫宮アンシーのパロディです。
元ネタが奇天烈すぎて、どんな過去を背負ってたらあんなキャラになるのか…
思い浮かばないのでしばらく寝かしときました。
そしてやっと出てきた!
この後文章でも書くつもりですが、前回のうららちゃんとは違ってかなりイタいです><
では、生温かい目で見守ってて下さい〜
あ、違うものが更新されてたら…その時は察してやって下さい^^;

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拍手もありがとうございますww
あいかわらず一貫性の無いヘボブログです…
せっかく訪れて下さった皆様の戸惑いと落胆が目に浮かぶようです^^;
残念なブログですけど、お気に召したらお気軽にお寄り下さいw
あまりのバカバカしさにチャンネル変えたくなりましたが…
水嶋ヒロくんがっ!ヒロくんが〜ww
ゴホンッ、
今回はオリジ絵を描きました。
さて、この子は誰でしょう。
ヒントは苺ワールドの住人です。
バレバレですね、答えは乙姫アンジュちゃん。
やっと彼女のことがわかってきたので思わず描いちゃいました。
過去の記事を見てくれた人はお分かりでしょうが、彼女は姫宮アンシーのパロディです。
元ネタが奇天烈すぎて、どんな過去を背負ってたらあんなキャラになるのか…
思い浮かばないのでしばらく寝かしときました。
そしてやっと出てきた!
この後文章でも書くつもりですが、前回のうららちゃんとは違ってかなりイタいです><
では、生温かい目で見守ってて下さい〜
あ、違うものが更新されてたら…その時は察してやって下さい^^;

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あいかわらず一貫性の無いヘボブログです…
せっかく訪れて下さった皆様の戸惑いと落胆が目に浮かぶようです^^;
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2008.10.10 (Fri)
URARA 後編
お金持ちのお嬢さんやお坊ちゃん達が通う超リッチな学院。
気後れしなかったと言えば嘘になるけど、お上品な子達だって私と同じ人間だもの、そんなに違ってるとは思わない。
仲良くなれば案外気さくないい子達かもしれない。
真新しい教室でこれからクラスメートになる子達に自己紹介をした後、休み時間のベルが鳴ると同時に、私の席に一目散に飛び込んで来た女の子がいた。
こぼれ落ちそうなほど大きな茶色の瞳をキラキラ輝かせて私を見つめる女の子は、業界で可愛い子は見慣れているはずの私にも、ハッとするほどの美少女だった。
全体的に小柄で小動物のような愛らしさがある。
長く広がる豊かな髪もミルクティーのような薄茶色で、もしかしたらハーフかもしれない。
透けるような白い肌に薄く色づく薔薇色のほっぺは健康的で、誰でもこの子を好きにならずにはいられないと思わせる魅力にあふれていた。
「ぼく、野原苺っていうの!うららちゃんって、あの、うららちゃんだよねっ!ぼく、うららちゃんのCD持ってるよ!えっとねっ、えっとねっ、とにかくぼく、うららちゃんの大ファンなの!だからうららちゃんが同じクラスメートになってくれて、ぼくすっごくうれしいの!」
(…ぼく?)
少し腑に落ちない点もあるけどまあいい。
あまり会話が得意ではないのか、まだ幼い子みたいな拙い口調で、それでも一生懸命うれしさを伝えようとする苺ちゃんに私は好感を持った。
「CD買ってくれてありがとう!あらためて高橋うららです。苺ちゃん、私と友達になってくれる?」
「うんっ!」
同性の私ですらドキッとするような、邪気のないとてもうれしそうな笑顔に、私はこの学院に転校して来て本当に良かったと思った。
それから苺ちゃんの友達にも紹介してくれた。
桐ノ蔭京さんは大人っぽくってカッコイイ。
お手本にするならこの人のような女性かもしれないと思ってしまった。
至って自然に私に接してくれて、快く友人の一人に加えてくれた。
苺ちゃんへの過剰過ぎるスキンシップが少し気になるところだけど、女の子同士にはよくあることだ。
そして成宮ジルくん。
金髪に緑の瞳の洋風美少年はいかにも癖が強そうだった。
苺ちゃんが一生懸命私を紹介してくれているにもかかわらず、彼は私物らしい手鏡でヘアスタイルを整えながら、興味なさそうに相槌を打つばかりで自分の世界に浸っていた。
「うららちゃんはね、すっごいんだよ!こないだのヒットチャートでもねっ」
「ふ〜ん、ねえ苺、ぼくってやっぱり右斜め45度の角度が一番映えると思うんだよねぇ」
「それでねっ、えっとねっ、うららちゃんの新曲の衣装がねっ、お姫様みたいにかっわいいんだよっ!」
少し観察してみると、苺ちゃんもマイペースなジルくんにはお構い無しに、自分の言いたいことを好き勝手に話している。
かみ合わない二人に私は呆れて笑うしかなかった。
最後に紹介された乙姫アンジュさんは、私が思い描いていた通りのお金持ちのお嬢さん然としていた。
褐色の肌がどことなくミステリアスな雰囲気を醸し出している、上品で物腰の柔らかい、常に微笑みを絶やさない可憐な少女に、ここへ来て私は初めて気後れを感じてしまった。
「うららさん、わたくしTVで拝見したことがありますわ。この学院は自由な校風ですから芸能活動にも特に支障をきたすことはないと思いますよ。もちろん苺さんのお友達ならわたくしにとっても大切なお友達ですわ。どうぞ仲良くして下さいね」
とても丁寧な話言葉に少しばかりカルチャーショックを受けた。
貧乏人とお金持ちとの格の違いを見せつけられた気がするのは、単なる貧乏人のひがみだろうけど。
さらに優しく笑いかけてくれる彼女に、薄ら寒いものを感じてしまうのはなぜだろうか…
苺ちゃんはジルくんにした話を、また彼女にうれしそうに語っていた。
アンジュちゃんはわかりにくい苺ちゃんの話をにこやかに聞きながら、苺ちゃんが聞いて欲しそうなタイミングで計ったように質問していた。
こんなに人の気持ちのわかる優しい子を悪く思うなんて、私ってば芸能界のいやな部分に染まりすぎたのかな。反省、反省。
そんなわけで私にも新しい友達ができた。
キュートな苺ちゃんをはじめ、かなり華やかで個性的な面々だと思うけど。
そして数日経ったある日、苺ちゃんが私の転入祝いの歓迎会をしたいと言ってくれたのだ。
場所はなんと都内某所の知る人ぞ知る、隠れ家的レストランを借り切ってのゴージャスなディナーだという。
実は芸能界の仕事をするようになって、何度か高級なお店にも連れて行ってもらったことがある。
よく分からない偉い人の接待のお伴とか、マネージャーの三宅さんが言うには、それも私を売り出すための大切な仕事なんだそうな…
もちろん私は未成年だから接待と言っても飲むのはジュースだけだが。
偉い人の相手は疲れるけど別の楽しみもある。
TVでしか見たことのないような豪華な料理の数々に、私は思わず三宅さんに縋りつき、残った料理を持ち帰ってはだめかと詰め寄った。
私の頼みがあまりにも切実だったからか、三宅さんはひきつりながらもこっそりと厨房にお願いしてくれた。
このお土産には清純さんも目を潤ませて喜んでくれたので、それからはこういう仕事がある時のためにタッパを持ち歩くことにしたのだ。
苺ちゃんの気持ちはとてもありがたかったけれど、私のための歓迎会には身分不相応すぎる。
苺ちゃん達はお小遣いには不自由していないだろうけど、実際に使わせるのは彼らの親のお金なのだから、私のために無駄なお金を使わせたくなかったのだ。
彼らの気持ちは嬉しいのでむげに断るのは忍びなかった。
そこで私が以前行って、とても良心的な値段だった、家族経営でやってる家庭料理のお店に変更してもらうことにした。
苺ちゃんは快く了承してくれて、他のメンバーもOKとの返事をもらった。
私のお勧めの店は隠れ家と言うよりも、立地条件の悪い単なる人気の無い店だ。
こころなしか以前来た時よりも荒んでるように見えるのは気のせいだろうか…
こんな店にお金持ちの子達を呼んでしまったのは、もしかすると大失敗だったかもしれないと、思いはじめた頃にはもう遅かった。
「うん…こじんまりとしてて他に客もいないし、落ち着けそうな店だね」
京さんありがとう…だけどそれじゃあフォローになってないよ。
私達は店内の奥まった位置にある大人数用のテーブルに着いた。
店のおかみさんがドタ足でやってきて、お盆に載せた人数分のお冷をこぼしそうな勢いで置いて行き、注文を取るためにまたやって来た。
彼らの心中を察して、テーブルの隅に立てかけてあった、油でぬめるメニューを急いで広げながら、私は暗澹たる思いで問いかけた。
「み、みんな、この中で食べたことある料理はあるかな…」
ラーメンから丼物まで取り揃った、節操のなさすぎるメニューに早くもくじけそうだ。
「ぼく、こないだ帝国ホテルの中国料理屋さんに行ったから、似た名前のがあるし…きっと食べたことあるよっ!」
無邪気な苺ちゃん…多分それは似ても似つかない料理だと思うよ。
文字だけのメニューに首をひねり始めたメンバー達、マズイ、とりあえずここは私に仕切らせてもらおう。
「じゃあ、私が適当に選んじゃっていいよねっ!」
「別になんだっていいや。それよりさっきからここ、なんか変な匂いがするんだけど」
ジルくん…ごめん、あんただけは連れてくるべきじゃなかったよ。
「おばさん、これと、これ。あとこれもね」
「あいよっ!」
おかみさんはすかさず厨房の方に頼んだメニューを大声で伝えた。
しばらくして注文した料理が次々とテーブルに並べられて、ホッとしたのもつかの間、耳をつんざくジルくんの悲鳴が聞こえた。
何事かとジルくんの方を見ると、彼はシミの目立つ壁の一点を見つめていた。
「何っ!あの黒い物体はっ!モゾモゾ這ってる…ヒィ〜!」
「あれは…」
私はとどめを刺された気分で、壁を這い回る黒いヤツを呆然と見つめるしかなかった。
もう無理だ…
脱兎の勢いでジルくんは店内から逃げ出した。
それを追うように京さんとアンジュちゃんまで急に用事を思い出したとかで、さっさと撤退してしまった。
後に残されたのは私と苺ちゃん。
「苺ちゃんも無理しなくていいよ。あとは私が…」
ひきつり笑いで彼女の方を窺うと、彼女は二人では多すぎる料理をすでに一品平らげて、二皿目に突入していた。
「うららちゃん、このお料理おいしいねっ!ぼく初めて食べたけど、気に入っちゃった」
ほっぺたに食べかすをくっつけておいしそうに頬張る苺ちゃんに、私は救いの天使を見た。
そう、出された食べ物を粗末にしてはバチがあたる。
私はこの時彼女に諭された気がした。
よく目を凝らして見れば不衛生過ぎる店内の中、私達は注文した料理を全て完食した。
さすがに胸焼けがして同じ料理は当分見たくもなかったけど、苺ちゃんは至極満足そうだった。
さて、私の歓迎会ということでみんなのおごりだという話だったが、逃げてしまったみんなの分まで苺ちゃん一人に背負わせてしまってはあまりにもかわいそうだ。
「苺ちゃん、ここのお店の食事代は、苺ちゃんと私の半分ずつで払おうね」
「だめだよっ!今日はうららちゃんの歓迎会なんだからっ、ぼくがおごるの!」
そう言って苺ちゃんは、自分のバックからガマ口のついた苺の形の可愛らしい財布を取り出すと、勢いよく中身をぶちまけた。
テーブルにチャリチャリーンと硬貨の転がる心地よい音がする。
あっと思った瞬間、貧乏が生み出した私の素早い計算処理能力が、瞬時に合計金額を弾き出した。
しめて278円也。
彼女の好意はとてもありがたいが、これでは割り勘にもなりはしない。
心配しなくても大丈夫だよ…と、私は泣きそうになってる苺ちゃんに微笑みかけて、自分のバックから財布を取り出そうとした時、苺ちゃんが突然大きな声をあげた。
「あっ!そういえばっ」
苺ちゃんは何やらまたバックの中を探り始めて、やっと目当てのものが見つかったらしく、得意げに私にそれを見せた。
「むんっ!こないだお祖父ちゃんからもらったの。いざという時に使いなさいって」
苺ちゃんが手にしていた真っ黒いカードは、もしかしてクレジットカードだろうか…
半信半疑で恐る恐る私はレジに向かった。
苺ちゃんがそのカードを差し出すと、レジ係も兼ねたおかみさんは顔色を変えてひどく取り乱して言った。
「まっ、誠に申し訳ございません。お客様、当店ではクレジットカードは取り扱っておりませんので…現金でお願い致します」
さっきまでとはなぜか口調まで変わってるけど…ええ、期待はしてませんでしたとも。
残念な歓迎会の後、マイペースなジルくんもさすがに責任を感じたのか、一緒に帰ろうと誘ってくれて珍しく二人で下校することになったのだが、突然ファッションビルのウインドウにへばり付いたかと思ったら、彼は店内に乱入してマネキンが来ていた女の子向けの洋服一式を衝動買いしてしまったのだ。
その時持ち合わせがないとかで、同伴者の私をジト目で見たのでしぶしぶ立て替えてあげたのだが、いまだに回収できていない。
一番貧乏なはずの私が、彼らのために散財してしまうことが多いのはなぜだろう…
芸能界は思った以上に周りに気を配らなくてはならない疲れる仕事だった。
空き時間にボイストレーニングやダンスレッスンなど、どんな仕事が舞い込んできても対応できるようにしなさいと、マネージャーの三宅さんがいつになく真剣に語ってくれた。
それがこの業界に長くいられる秘訣だとも。
そう、自分磨きを忘れてはいけなかった。
ぐったりと疲れ果てて夜遅く帰ると、室内に立ち込めたお馴染みのテレピン油の匂い。
所属事務所が用意してくれた新しいアパートはセキュリティーも万全だ。
前より格段に家賃は高くなってしまったけれど、過激なファン対策の為だと事務所に説得されては、身の危険には代えられないのでしょうがない。
リビングの一角、イーゼルに載せられたカンバスに、背筋を伸ばして筆を走らせる清純さんの横顔は清々と澄んでいる。
清純さんはどんなに遅くなってもこうして私の帰りを待っててくれる。
私が帰宅したのに気付くと、いつものように満面の笑顔を向けてこう言うのだ。
『おかえり、うららちゃん』
この一言で私の疲れは一気に吹き飛ぶ。
生活能力のない男は論外。
昔そんなふうに結論付けたことがあったけど、あれは幼さゆえの極論だった。
父のような甲斐性無しの男に運悪く惚れてしまった場合、一つだけ道がある。
私が家族を支えられるだけの収入や包容力を身につければ良いだけなのだから。
いまはアイドルやってるけど、ずっとそれが続くとはもちろん思ってない。
だから私は未来のために、がんばっていまを生きるんだ。
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気後れしなかったと言えば嘘になるけど、お上品な子達だって私と同じ人間だもの、そんなに違ってるとは思わない。
仲良くなれば案外気さくないい子達かもしれない。
真新しい教室でこれからクラスメートになる子達に自己紹介をした後、休み時間のベルが鳴ると同時に、私の席に一目散に飛び込んで来た女の子がいた。
こぼれ落ちそうなほど大きな茶色の瞳をキラキラ輝かせて私を見つめる女の子は、業界で可愛い子は見慣れているはずの私にも、ハッとするほどの美少女だった。
全体的に小柄で小動物のような愛らしさがある。
長く広がる豊かな髪もミルクティーのような薄茶色で、もしかしたらハーフかもしれない。
透けるような白い肌に薄く色づく薔薇色のほっぺは健康的で、誰でもこの子を好きにならずにはいられないと思わせる魅力にあふれていた。
「ぼく、野原苺っていうの!うららちゃんって、あの、うららちゃんだよねっ!ぼく、うららちゃんのCD持ってるよ!えっとねっ、えっとねっ、とにかくぼく、うららちゃんの大ファンなの!だからうららちゃんが同じクラスメートになってくれて、ぼくすっごくうれしいの!」
(…ぼく?)
少し腑に落ちない点もあるけどまあいい。
あまり会話が得意ではないのか、まだ幼い子みたいな拙い口調で、それでも一生懸命うれしさを伝えようとする苺ちゃんに私は好感を持った。
「CD買ってくれてありがとう!あらためて高橋うららです。苺ちゃん、私と友達になってくれる?」
「うんっ!」
同性の私ですらドキッとするような、邪気のないとてもうれしそうな笑顔に、私はこの学院に転校して来て本当に良かったと思った。
それから苺ちゃんの友達にも紹介してくれた。
桐ノ蔭京さんは大人っぽくってカッコイイ。
お手本にするならこの人のような女性かもしれないと思ってしまった。
至って自然に私に接してくれて、快く友人の一人に加えてくれた。
苺ちゃんへの過剰過ぎるスキンシップが少し気になるところだけど、女の子同士にはよくあることだ。
そして成宮ジルくん。
金髪に緑の瞳の洋風美少年はいかにも癖が強そうだった。
苺ちゃんが一生懸命私を紹介してくれているにもかかわらず、彼は私物らしい手鏡でヘアスタイルを整えながら、興味なさそうに相槌を打つばかりで自分の世界に浸っていた。
「うららちゃんはね、すっごいんだよ!こないだのヒットチャートでもねっ」
「ふ〜ん、ねえ苺、ぼくってやっぱり右斜め45度の角度が一番映えると思うんだよねぇ」
「それでねっ、えっとねっ、うららちゃんの新曲の衣装がねっ、お姫様みたいにかっわいいんだよっ!」
少し観察してみると、苺ちゃんもマイペースなジルくんにはお構い無しに、自分の言いたいことを好き勝手に話している。
かみ合わない二人に私は呆れて笑うしかなかった。
最後に紹介された乙姫アンジュさんは、私が思い描いていた通りのお金持ちのお嬢さん然としていた。
褐色の肌がどことなくミステリアスな雰囲気を醸し出している、上品で物腰の柔らかい、常に微笑みを絶やさない可憐な少女に、ここへ来て私は初めて気後れを感じてしまった。
「うららさん、わたくしTVで拝見したことがありますわ。この学院は自由な校風ですから芸能活動にも特に支障をきたすことはないと思いますよ。もちろん苺さんのお友達ならわたくしにとっても大切なお友達ですわ。どうぞ仲良くして下さいね」
とても丁寧な話言葉に少しばかりカルチャーショックを受けた。
貧乏人とお金持ちとの格の違いを見せつけられた気がするのは、単なる貧乏人のひがみだろうけど。
さらに優しく笑いかけてくれる彼女に、薄ら寒いものを感じてしまうのはなぜだろうか…
苺ちゃんはジルくんにした話を、また彼女にうれしそうに語っていた。
アンジュちゃんはわかりにくい苺ちゃんの話をにこやかに聞きながら、苺ちゃんが聞いて欲しそうなタイミングで計ったように質問していた。
こんなに人の気持ちのわかる優しい子を悪く思うなんて、私ってば芸能界のいやな部分に染まりすぎたのかな。反省、反省。
そんなわけで私にも新しい友達ができた。
キュートな苺ちゃんをはじめ、かなり華やかで個性的な面々だと思うけど。
そして数日経ったある日、苺ちゃんが私の転入祝いの歓迎会をしたいと言ってくれたのだ。
場所はなんと都内某所の知る人ぞ知る、隠れ家的レストランを借り切ってのゴージャスなディナーだという。
実は芸能界の仕事をするようになって、何度か高級なお店にも連れて行ってもらったことがある。
よく分からない偉い人の接待のお伴とか、マネージャーの三宅さんが言うには、それも私を売り出すための大切な仕事なんだそうな…
もちろん私は未成年だから接待と言っても飲むのはジュースだけだが。
偉い人の相手は疲れるけど別の楽しみもある。
TVでしか見たことのないような豪華な料理の数々に、私は思わず三宅さんに縋りつき、残った料理を持ち帰ってはだめかと詰め寄った。
私の頼みがあまりにも切実だったからか、三宅さんはひきつりながらもこっそりと厨房にお願いしてくれた。
このお土産には清純さんも目を潤ませて喜んでくれたので、それからはこういう仕事がある時のためにタッパを持ち歩くことにしたのだ。
苺ちゃんの気持ちはとてもありがたかったけれど、私のための歓迎会には身分不相応すぎる。
苺ちゃん達はお小遣いには不自由していないだろうけど、実際に使わせるのは彼らの親のお金なのだから、私のために無駄なお金を使わせたくなかったのだ。
彼らの気持ちは嬉しいのでむげに断るのは忍びなかった。
そこで私が以前行って、とても良心的な値段だった、家族経営でやってる家庭料理のお店に変更してもらうことにした。
苺ちゃんは快く了承してくれて、他のメンバーもOKとの返事をもらった。
私のお勧めの店は隠れ家と言うよりも、立地条件の悪い単なる人気の無い店だ。
こころなしか以前来た時よりも荒んでるように見えるのは気のせいだろうか…
こんな店にお金持ちの子達を呼んでしまったのは、もしかすると大失敗だったかもしれないと、思いはじめた頃にはもう遅かった。
「うん…こじんまりとしてて他に客もいないし、落ち着けそうな店だね」
京さんありがとう…だけどそれじゃあフォローになってないよ。
私達は店内の奥まった位置にある大人数用のテーブルに着いた。
店のおかみさんがドタ足でやってきて、お盆に載せた人数分のお冷をこぼしそうな勢いで置いて行き、注文を取るためにまたやって来た。
彼らの心中を察して、テーブルの隅に立てかけてあった、油でぬめるメニューを急いで広げながら、私は暗澹たる思いで問いかけた。
「み、みんな、この中で食べたことある料理はあるかな…」
ラーメンから丼物まで取り揃った、節操のなさすぎるメニューに早くもくじけそうだ。
「ぼく、こないだ帝国ホテルの中国料理屋さんに行ったから、似た名前のがあるし…きっと食べたことあるよっ!」
無邪気な苺ちゃん…多分それは似ても似つかない料理だと思うよ。
文字だけのメニューに首をひねり始めたメンバー達、マズイ、とりあえずここは私に仕切らせてもらおう。
「じゃあ、私が適当に選んじゃっていいよねっ!」
「別になんだっていいや。それよりさっきからここ、なんか変な匂いがするんだけど」
ジルくん…ごめん、あんただけは連れてくるべきじゃなかったよ。
「おばさん、これと、これ。あとこれもね」
「あいよっ!」
おかみさんはすかさず厨房の方に頼んだメニューを大声で伝えた。
しばらくして注文した料理が次々とテーブルに並べられて、ホッとしたのもつかの間、耳をつんざくジルくんの悲鳴が聞こえた。
何事かとジルくんの方を見ると、彼はシミの目立つ壁の一点を見つめていた。
「何っ!あの黒い物体はっ!モゾモゾ這ってる…ヒィ〜!」
「あれは…」
私はとどめを刺された気分で、壁を這い回る黒いヤツを呆然と見つめるしかなかった。
もう無理だ…
脱兎の勢いでジルくんは店内から逃げ出した。
それを追うように京さんとアンジュちゃんまで急に用事を思い出したとかで、さっさと撤退してしまった。
後に残されたのは私と苺ちゃん。
「苺ちゃんも無理しなくていいよ。あとは私が…」
ひきつり笑いで彼女の方を窺うと、彼女は二人では多すぎる料理をすでに一品平らげて、二皿目に突入していた。
「うららちゃん、このお料理おいしいねっ!ぼく初めて食べたけど、気に入っちゃった」
ほっぺたに食べかすをくっつけておいしそうに頬張る苺ちゃんに、私は救いの天使を見た。
そう、出された食べ物を粗末にしてはバチがあたる。
私はこの時彼女に諭された気がした。
よく目を凝らして見れば不衛生過ぎる店内の中、私達は注文した料理を全て完食した。
さすがに胸焼けがして同じ料理は当分見たくもなかったけど、苺ちゃんは至極満足そうだった。
さて、私の歓迎会ということでみんなのおごりだという話だったが、逃げてしまったみんなの分まで苺ちゃん一人に背負わせてしまってはあまりにもかわいそうだ。
「苺ちゃん、ここのお店の食事代は、苺ちゃんと私の半分ずつで払おうね」
「だめだよっ!今日はうららちゃんの歓迎会なんだからっ、ぼくがおごるの!」
そう言って苺ちゃんは、自分のバックからガマ口のついた苺の形の可愛らしい財布を取り出すと、勢いよく中身をぶちまけた。
テーブルにチャリチャリーンと硬貨の転がる心地よい音がする。
あっと思った瞬間、貧乏が生み出した私の素早い計算処理能力が、瞬時に合計金額を弾き出した。
しめて278円也。
彼女の好意はとてもありがたいが、これでは割り勘にもなりはしない。
心配しなくても大丈夫だよ…と、私は泣きそうになってる苺ちゃんに微笑みかけて、自分のバックから財布を取り出そうとした時、苺ちゃんが突然大きな声をあげた。
「あっ!そういえばっ」
苺ちゃんは何やらまたバックの中を探り始めて、やっと目当てのものが見つかったらしく、得意げに私にそれを見せた。
「むんっ!こないだお祖父ちゃんからもらったの。いざという時に使いなさいって」
苺ちゃんが手にしていた真っ黒いカードは、もしかしてクレジットカードだろうか…
半信半疑で恐る恐る私はレジに向かった。
苺ちゃんがそのカードを差し出すと、レジ係も兼ねたおかみさんは顔色を変えてひどく取り乱して言った。
「まっ、誠に申し訳ございません。お客様、当店ではクレジットカードは取り扱っておりませんので…現金でお願い致します」
さっきまでとはなぜか口調まで変わってるけど…ええ、期待はしてませんでしたとも。
残念な歓迎会の後、マイペースなジルくんもさすがに責任を感じたのか、一緒に帰ろうと誘ってくれて珍しく二人で下校することになったのだが、突然ファッションビルのウインドウにへばり付いたかと思ったら、彼は店内に乱入してマネキンが来ていた女の子向けの洋服一式を衝動買いしてしまったのだ。
その時持ち合わせがないとかで、同伴者の私をジト目で見たのでしぶしぶ立て替えてあげたのだが、いまだに回収できていない。
一番貧乏なはずの私が、彼らのために散財してしまうことが多いのはなぜだろう…
芸能界は思った以上に周りに気を配らなくてはならない疲れる仕事だった。
空き時間にボイストレーニングやダンスレッスンなど、どんな仕事が舞い込んできても対応できるようにしなさいと、マネージャーの三宅さんがいつになく真剣に語ってくれた。
それがこの業界に長くいられる秘訣だとも。
そう、自分磨きを忘れてはいけなかった。
ぐったりと疲れ果てて夜遅く帰ると、室内に立ち込めたお馴染みのテレピン油の匂い。
所属事務所が用意してくれた新しいアパートはセキュリティーも万全だ。
前より格段に家賃は高くなってしまったけれど、過激なファン対策の為だと事務所に説得されては、身の危険には代えられないのでしょうがない。
リビングの一角、イーゼルに載せられたカンバスに、背筋を伸ばして筆を走らせる清純さんの横顔は清々と澄んでいる。
清純さんはどんなに遅くなってもこうして私の帰りを待っててくれる。
私が帰宅したのに気付くと、いつものように満面の笑顔を向けてこう言うのだ。
『おかえり、うららちゃん』
この一言で私の疲れは一気に吹き飛ぶ。
生活能力のない男は論外。
昔そんなふうに結論付けたことがあったけど、あれは幼さゆえの極論だった。
父のような甲斐性無しの男に運悪く惚れてしまった場合、一つだけ道がある。
私が家族を支えられるだけの収入や包容力を身につければ良いだけなのだから。
いまはアイドルやってるけど、ずっとそれが続くとはもちろん思ってない。
だから私は未来のために、がんばっていまを生きるんだ。
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