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2008.03.05 (Wed)

K&C プロローグ

いったい何人の選手が氷上で悔し涙を流したことだろうか…

冬の祭典の華、フィギュアスケート。
中でもシングルの選手はウィンタースポーツの花形とも呼ばれる存在だ。
美しく華麗にして、競技の枠を越えた芸術とも言えるスポーツなのである。
観る者の心をとらえて放さない、何年も語り伝えられるべき伝説のスケーター達。

女子選手として世界で初めて公式戦でトリプルアクセルを成功させたアジアのツナミガールは、それまでの優雅な女子シングル界に男子選手並みのスピードとジャンプ力を見せつけて、以後の女子シングル界のレベルを飛躍的に進化させるという金字塔を打ち建てた。

ショーマンシップに溢れたフランスの伊達男は、騎士の剣技を模したストレートラインステップで大いに観客を沸かせた。

『That's life(それが人生)』
度重なる不幸を乗り越え、それでも念願のゴールドメダルをその手に掴むことができなかったロシアの女王は、笑顔でそう答えたと言う。

それぞれの悲喜交々の思いを胸に、選手達は銀盤の上で華麗に舞う。

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2008.03.05 (Wed)

K&C 折れた翼 1

その年の冬期オリンピックはイタリアのトリノで開催された。
フィギュアスケートの会場はトリノ市内にあるパラヴェーラ(パラッツォ・ア・ヴェーラ)屋内競技場で行われた。

男子シングルでは一枠のみの出場資格となった日本人唯一の期待の星。
弱冠18歳の日本不動のエース、鷹森翔太。
背負わされた重圧は重く圧し掛かるが、ある程度のプレッシャーならば生来の勝気と負けん気で乗り越えることが出来たし、ばねにかえるだけのメンタル面の強さもあったのでむしろ望むところであった。
そう、この時までは…

前日のショートプログラムでは何とか7位につけることがやっとだった。
目立ったミスは犯さなかったものの、技術要素をローリスクに抑えたため、思ったほどの得点は得られなかった。
このままでも入賞は出来るが、上位順位の点差は僅かなのでメダルのチャンスを失ったわけではない。

満を持して望んだ最初のクァドラプルトウループが失敗して転倒してしまった!
続く得意のトリプルアクセルは成功したが、トリプルループとトリプルサルコウは抜けてしまってシングルになり、苦手のスピンは回転スピードの不足でよたつき、得意のはずのサーキュラーステップまで精彩を欠いた。
後半、トリプルアクセル+ダブルトウループ+ダブルループの三連続ジャンプを予定していたが、最初のジャンプでエッジが引っかかって、続くコンビネーションを飛ぶことが出来なかった。これは三回転以上の同じ種類で同じ回転数の単独ジャンプを二回飛ぶことは出来ない、と言うザヤックルールにひっかかる。
トリプルフリップ+ダブルトウループのコンビネーションも、失敗を引きずりダブル+シングルになった上にフリップはアウトエッジに乗ってしまう…
(だめだ、これじゃ入賞もできねぇよな…よし!次のルッツで飛べなかったコンビネーションにチャレンジだ…)
けして得意ではないトリプルルッツに急遽、飛べなかった三連続ジャンプのコンビネーションを入れようとした結果、手をついてしまった。
最後のダブルアクセルは何とか着氷するが、翔太の頭の中は暗澹たる思いでいっぱいであった。
締めの見せ場とも言うべきストレートラインステップも、コンビネーションスピンも記憶すらなかった。

キス&クライで演技の結果を待つ間、放心状態で終始翔太は俯いていた。
結果は八つも順位を落としての15位と言う成績だった。
ジャッジにファーストジャンプが4回転ジャンプへの挑戦とは見なされず、三回転扱いにされてしまったというおまけもついている。
結果が出た早々、翔太は得点もろくに見ないままキス&クライを降りると、待ち構えていた日本のインタビュアーをそのまま振り切って逃げた。

(悔しい!悔しい!悔しい!まったく、なんてざまだ!なさけねぇ…おれってば……)
バックヤードで思わず溢れてくる涙を衣装の袖で拭う。
そんな自分もなさけなくって、むかついて…
野次馬が興味深そうに翔太を遠巻きにうかがっている。
(ばかやろー!じろじろ見てんじゃね〜よっ!人の失敗がそんなに面白いかよっ!)

いままでそれなりの努力はして来たものの、おおむね順風満帆でやってきた翔太にとって、この大舞台が人生で初めて味わった屈辱だったかもしれない。


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2008.03.07 (Fri)

K&C 折れた翼 2

控え室に戻った翔太は、下位の選手が近づきがたい程のオーラを醸し出して項垂れていた。
傍らにいるコーチの杉沼と振付師のパウル・フェデラーに、先ほどの無礼な態度、得点も見ずにキス&クライを降りたことや、予定していたインタビューをボイコットしてしまったことについて、懇々と説教されていた。

しばらくすると勢い良くドアが開き、いま最も会いたくないと思っていた人物が、満面の笑みを浮かべて翔太の前にやってきた。
先ほどの翔太の無様な滑りを直接見たのか、モニターで見たのかは不明だが、開口一番こう言った。
「こうもボッロボロだと逆に壮快だわね!」
「だまれ、オカマ!」
(なんでこいつはいつもおれの神経を逆なでするのがうまいんだ!)
これ以上同じ空気を吸ってたくないので、翔太は着替えて帰り支度をすることにする。
「きぃ〜!何ですって!ちょっと、まちなさいよっ!」
(まだなんか喚いてるが、知ったこっちゃねえ!)
ジュニア時代からの翔太のライバル兼天敵。
フランス代表のフランソワ・ビノシュは何かにつけて翔太に突っかかってくる、いけ好かないやな奴だ。
天使のような愛らしい美貌と、華麗にして繊細な演技に国内外のファンも多いが、中身は毒舌の小悪魔だ。

そして着替え終わってコーチ達と共に控え室を出て行こうとした矢先。
もう一人のライバルと鉢合わせしてしまった。
翔太に気付き、一瞬気まずそうな様子を見せたが、誠実な人柄で知られる彼の心そのままに、真心をこめて慰めてくれた。
「その、なんて言っていいか、ああ、失敗は成功を教えてくれると言うじゃないか。今日は調子が悪かったけど、あきらめなければ次にパーフェクトな演技ができるかもしれないよ」
そう言って、はんなりと微笑むのだ。
失敗した翔太を心底気遣ってくれる、心優しいナイスガイ。
アメリカ代表のロシア系アメリカ人エドゥアルド・ソロキンで、この男もまた同性愛者だ。
フィギュアスケーター、ことに男子シングルの選手にはなぜかゲイが多い。
翔太を含めた演技者達は多かれ少なかれ、ナルシストな一面を持っている。ある意味、自分に酔いしれる演技が出来ないようでは観客を魅了する演技は生まれない。などど最もらしく分析してみても、大好きな自分と同じ性を好んでいるとしか推測しようもないのだが。
そんなわけで、エドゥアルドの慰めに、翔太は素直に感謝した。
「…ありがとう」
「そんな負け犬ほっときなさいよ!」
すかさず後ろから茶々を入れる小悪魔だったが、エドゥアルドが悲しそうな顔をすると、なぜか静かになって黙り込んだ。
(おれには情け容赦ないくせに、エドには弱いんだよな〜こいつって…)

ショート・プログラムの成績で翌日の滑走順が決められるため、二人の順位は翔太の遥か先に位置する。
翔太は失敗のショックから、その後の上位順位がどうなっているかなど確認もしてもいなかったが、もしかすると二人は表彰台圏内かもしれない。

歓声と共にドアの向こうが急に慌しくなってきた。
「あ、いたいた!」
「おい、押すなよ!」
カメラを抱えた報道陣が、エドゥアルドに向かってマイクを突き出した。
「惜しかったねぇ、あと、ほんのちょっとの差だったのに…」
「え?」
「あ、すみません、ちょっと通してください」
エドゥアルドのコーチが、報道陣から彼を守るように割って入った。
エドゥアルドがコーチに視線を投げかけると、コーチはひとつ頷き彼の質問に答えた。
「いま最終滑走のヴァシチェンコの得点が出た。おめでとう、君はシルバーメダリストだよ」
「きゃ〜あ〜!!」
今の話を聞いてたらしい、控え室にいるフランソワが黄色い歓声をあげる。
(でもさっきからモニター中継で演技を見てたらしいフランソワは、とっくに知ってたはずだけど…)
エドゥアルド本人はびっくりしてたが、すぐに満面の笑顔を浮かべてコーチと抱き合った。
エドゥアルドに慰められたように、翔太も心から彼の大健闘を称えた。
「惜しかったね、金メダル。でも、おめでとう!」
「ありがとう、翔太!信じられないよ、ぼくがメダリストだなんて…!」
歓喜のメダリストは頬を上気させて、こんどは翔太に抱きついて喜びを訴える。と、後ろから抗議の声が上がる。
「ちょっと、エドゥアルド!抱きつくんならそんな縁起の悪い子じゃなくて、5位入賞のこのぼくにしなさいよっ!」

栄えある金メダルを獲得したのは、ロシアの鉄の男アイアン・マン、ミスターパーフェクトとも異名をとる、ユーリー・ヴァシチェンコだ。
現地入りしてからは一人ホテルに引きこもり、選手村にも一切顔を出さず、周囲を完全シャットアウトして競技に集中したと言う。
それが功を奏したのかは不明だが、翔太はヴァシチェンコが苦手だった。
冷静に観察してみると、エドゥアルドやフランソワ、他の白人には無愛想ながらも普通に会話してるが、翔太を含めた東洋人にはまるでその辺にいる虫けらのように、冷たい一瞥をくれるのみで無視するのである。
(まあ、海外に出ると時々いる白人至上主義者なんだろうけど、そんな奴がゴールドに輝くなんてすげームカつく…)
銀メダリストはすでにご存知の通りのアメリカ代表で、翔太はこれには本当に大満足だ。
銅メダリストはカナダ代表のダニエル・バトラーだった。
個性的な演技をする選手で、好不調の波のある選手だったが、今回はみごとに幸福の女神が微笑んだというわけだ。

閉会式に出席せずに一足先に帰国することにした翔太は、一抹の寂しさを感じながらパラヴェーラ競技場を後にする。

また一からやり直しだ、絶対に這い上がってやる。
目指すは次の開催地バンクーバーだ!


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2008.03.09 (Sun)

K&C 折れた翼 3

空港で待ち構えていたのは、どこから情報が漏れたものか、他の選手達より早めに帰国したにもかかわらず、まだ見捨てないでいてくれたらしい一部のファン達の他に、真実を伝えることよりもゴシップ記事を載せることに血道を上げるスポーツ記者連中や、各局報道陣に偶然この場に居合わせたらしい通行人まで、面白そうに携帯を取り出して翔太をカメラにおさめようとしていた。

「鷹森君!応援してくれてた国民の皆さんに、何か一言ないですか?」
「不甲斐無い成績だったけど、応援してくれたファンの皆さんへの謝罪はありませんか?」
「失敗していくらショックだったからって、説明もなしで逃げ出すなんて、あまりにも自分勝手で無責任だと思うけど!」
「そうだ!そうだ!」
「オリンピック代表選手としての自覚が足りないんじゃないの!」
「翔ちゃ〜ん!私はずっと応援してるよ〜!!」
「がんばって〜!」
「一部では実力的にはまだオリンピックに出場できるレベルに達してない君が、人気にあやかって連盟とJOCが結託した結果、出場資格が与えられたとか何とか…選考に不備があったと言う情報もあるんだけどねぇ」
(何言ってやがるんだ!代表選考のかかった全日本フィギュアで、ダントツに優勝したのはじゃあ、誰だって言うんだ!それ以前にポイント制だってんだ!)
聞き捨てならないこの暴言に思わず、翔太は何か一言いってやろうとしたが、慌てたコーチに袖を引っ張られ目顔で止められた。
まあ、言わなくて済んで正解だった…そんなことしたら更にマスコミの餌食になると言う、向こうの思う壺だったろうから。
「国の代表として出場してるんだから、あんまり子供っぽい真似しないでくれるかなぁ」
「国外にも君の問題行動は流れてるんだぞ!同じ日本人として恥ずかしいよ、まったく!」

演技の内容も然ることながら、マスコミは競技終了後のインタビューをボイコットした翔太の態度の悪さを責め立てた。
熱くなった報道陣に四方から取り囲まれて、翔太の身を案じたコーチ達はなかば両サイドからガードする形で、ほうほうのていで空港から脱出する羽目になった。

長旅と空港でのトラブルにほとほと疲れ果てて、やっと東京郊外にある自宅にたどり着いた時には心底ホッとした。
こんなこともあろうかと機転を利かせたコーチ達のおかげで、騒ぎに巻き込まれないよう家族達には家で翔太の帰りを待っててもらったのは正解だった。
スーツケースを引きずって室内に入ると、家族達は至って普通に出迎えてくれた。
一番先に翔太の帰りを出迎えてくれたのは、尻尾を振ってうれしそうに纏わりついてきた鷹森家の愛犬、柴犬のコタロウだ。
「あら、おかえり」
家事をしていたらしい母の美佐子が、台所から出て来てエプロンの裾で濡れた手を拭きながら、久しぶりに顔を見る息子にのん気に声を掛ける。
翔太の父はまだ仕事中のはずだった。
「お疲れさん」
TVゲームで遊んでたらしい兄の翼はそう言うと立ち上がって近寄り、翔太のほっぺたをムニ〜っと引っぱって、こう付け加えた。
「腕白ボーズ!少しは凡人の気持ちがわかったか?」
「いってぇな、何のことだよ…」
翔太は引っぱられた自分の頬をスリスリと撫でさする。
そんな翔太に一つため息をつくと翼は苦笑いを浮かべて、こんどは翔太の頭をぐちゃぐちゃに掻き回した。
「何でもねぇよ」
「あにすんだよっ、このっ!翼まて、このやろ!」
二つしか年が離れてないのを良いことに、くそ生意気な弟は、兄を呼び捨てにする。
兄の鷹森翼はJリーグのプロサッカー選手であり、知る人ぞ知るアスリートのDNAを持った異種スポーツ兄弟として、二つの業界ではかなり有名な話であった。
高校を卒業後、実家を出て茨城にあるクラブの寮に住んでいる。
シーズンオフでもあるし、今日は傷心の弟を慰めてやろうと、久しぶりに実家に戻ってきた訳だが、傍目には虐待してるとしか見えないことだろう…
じつはこれには翼なりの翔太に対する複雑な思いも関係している。
(かわいさあまって何とやら…かもな)
翔太はいきなりスーツケースの中身をぶちまけると、家族へのイタリア土産を探し出して得意満面の笑顔で差し出した。
母への土産はセンスを疑うようなどぎつい色のスカーフで、広げられた布地を見ながら母の美佐子は困惑していた。
相変わらずの弟の無邪気っぷりを兄の翼は目を細めて苦笑するしかなかった。

翔太は手の付けられないやんちゃ坊主だった。
二つ上の兄の翼は聞き分けが良く素直でいい子だったが、なぜか翔太といると一緒になって暴れ回っていた。
元気の有り余ってた兄弟に手を焼いた美佐子は、幼稚園が終わると二人まとめて近所のスイミングスクールに通わせることにした。
ところが三歳児の翔太には退屈だったのか、ふてくされてもう行かないと駄々をこねた。
この時両親は子供のことだから、気に入らないことでもあったのだろう位の軽い気持ちで、あまり気に病まずにスイミングスクールを辞めさせた。
翔太本人はまだ幼かったから、なぜつまらなかったのかはわからなかった。
だが一番割りを食ったのは翔太のそばにいた翼だった。
翔太ほどは幼くなかったので、弟がすぐに出来たバタ足も自分はすぐには出来ないのだと、かなりのショックを受けた。
翼がやっと息継ぎができるようになった時には、翔太はすでに蛙のように泳げるようになってスクールを辞めていた。
実を言うといまの翼があるのは翔太への並々ならぬ対抗心から生まれた成功であり、弟は知らずに兄に努力と根性というものを植え付けたことになった。
その後翼は地道にクロールまでマスターした後、地元の大会で優勝も果たした。
小学校の三年生になると前々から興味のあったサッカースクールで基礎を学びながら、週末は地元地区のジュニアサッカーチームに所属し、公式戦や対外試合に出場した。
サッカーが面白くなってうち込んでいるうちに、数々の大会で優勝するようになって翼個人も認められ、サッカーの名門校に入学後は当然のようにプロに進む道が用意されていた。

翼は少し感傷的になってしまった自分を反省した。
「おい!翼、喜べ!お前にもちゃんと土産を用意してるんだぞ!」
瞳を輝かして、ガキの頃のように『兄ちゃん、褒めて!褒めて!』のオーラを垂れ流してる、満面笑顔の弟。
その手に広げられてる翼への土産のTシャツには、やはりセンスのかけらも無いプリントがどぎつく描かれている…


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2008.03.11 (Tue)

K&C 折れた翼 4

自宅に戻ってホッとしたのも束の間。
日本に帰国した傷心の翔太を待ち受けていたのは、世間の冷たい仕打ちだった。
メディアには連日、散々叩かれ罵られた。
実力も無いアイドル選手が、身の程もわきまえずにオリンピックの代表選手に選ばれて、調子に乗って世界に恥を晒したなどとまで言われる始末だった。
例のキス&クライの壇上でのマナーの悪さと、試合後のインタビューをすっぽかした件が尾を引いて、問題児あつかいされてしまったのも痛かった。
容赦ないメディアは公式な場での謝罪会見を要求した。
翔太がまだ弱冠18歳の現役高校生だということへの配慮は皆無だった。

さらには不甲斐ない成績を残した翔太に、日本スケート連盟は特別強化選手から強化選手に格下げした。
毎月支給される強化費が減額されるということで、実力が左右するシビアな世界、さらに人気にも付加価値をつける連盟である。
成功すれば見も知らぬ人からまで賛辞を送られるが、失敗すれば手の平を返したように罵倒される。

フィギュアスケートはたいへん金のかかるスポーツでもある。
フィギュアスケート用の靴はフィギュアスケーターにとっては一番気を使う部分であるので妥協は出来ない。
競技会に出場するような選手になると、自分の足に合わせてオーダーするのが主流となっているが、消耗品なので3〜4ヶ月ごとに買い換えることになる。
一足10万円以上の靴を履いている選手もざらである。
競技会用の衣裳代やらリンクの使用料に、コーチ、トレーナー、振付師、選任ドクターなどに支払う費用など、多額の出費を強いられるスポーツなのだ。

CMに起用されるほどのネームバリューのある選手ならば、JOCのシンボルアスリートになっている選手でも、年間一千万程度のCM出演料がもらえる。
そこまで注目されてない中堅クラスの選手達の活動費は、社会人ならば所属企業とのスポンサー契約が必要不可欠であった。
またアマチュアながらもグランプリシリーズなどに出場する選手には報酬金も出る。
だがスポンサー契約の取れない選手達は必然的にリンクを去ることになる。
学生の場合はスケートを続ける上で、裕福な家庭環境であることが重要なファクターとなっているのが現状である。

翔太の場合、父は役所勤めの公務員であり、ごく普通の中流家庭である。
本格的に競技会に出場するような選手になってからは、翔太のスケート代に掛かる費用を捻出するために、母の美佐子がパートに出るようになった。
それでも足りない分は、衣裳などを手作りしてくれたりと工夫したが、美佐子にかかる負担は大きかった。
見兼ねた翔太の祖父母達が援助を申し出てくれたのは本当にありがたいことであった。
そんな状況がしばらく続いた後、翔太が競技会で優勝や好成績を残すようになってからは、メディアの注目を浴びるようになり、CM起用が決まり一躍世間に知られるようになった。
翔太もまたJOCシンボルアスリート適用選手の1人であり、オリンピックの日本代表に選出されてからは連日CMが流れて番組出演もするほどのスター選手になった。
ただCMの出演料が入るのはまだ先のことでもあり、翔太の顔と名前が世間に知られるようになったのも、代表選手に決まったここ最近のことであった。

この春高校を卒業する翔太には、すでに内定契約を結んでいる企業がある。
いわゆるスポンサー契約である。
大手レコードレーベルを抱えるレイベックス・グループの所属となることが決定しているのだが、そこから毎月給料が支給される身となったら、いままで苦労をかけた家族達の負担も少しは減るかもしれないと思っていた。

ところが翔太の予想を上回るほどの深刻な事態が待ち受けていた。

「え…!内定…取り消し…ですか?」
春休み中でもあり、最終学年の者は卒業証書授与式までは学校に登校するのを免除されていた。
さらに翔太はスポーツ特待生でもあり、学校側も事情は良くわかっている。
それなのに呼び出しを食らって行ってみれば、何とも気の滅入る最悪の知らせだった。
曲がりなりにも翔太はこの高校の一生徒だったため、レイベックスの人事部から進路指導の教師を通して、この不愉快極まる話を聞く羽目になったのだった。
(これはいわゆる就職浪人てやつか…?)
一瞬呆けてのん気に思ったが、次第にことの重要性を飲み込めてきたら、怒りがこみ上げてきた。
「何で!?いきなり内定取り消しって、……冗談じゃねぇよっ!!ふざけんな!」
「そうだよね、ぼくも何とか考え直してくれるように先方にお願いしてみたんだけど…力不足でゴメンね」
まだ若い教師は済まなそうに翔太に謝った。
教師の責任ではないが、いくら謝って貰っても何の解決にもならない。
翔太にもいきなりレイベックスが内定を取り消した訳はわかっていた。
マスコミに散々叩かれたあの件だ。
オリンピックで良い成績も残せなかった上、すっかり傷物になってしまった選手には、会社の看板を背負って貰いたくないと言う訳である。

「…はは」
学校からの帰り道、悔しいやら情けないやら、いろいろな感情がこみ上げてきたが、翔太はただ笑うことしか出来なかった…


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